めんたねの技術をマジメにふざけて実践する
親心の欠如
2008年03月26日 (水) | 編集 |
今日、T氏と会話していて、
彼の元教え子の大学受験合否の話題になった。
どうやら、その教え子は第一志望に落ちたらしく、
その進路はあきらめたらしい。

そして、T氏はそのことに心を痛めているのか、心配しているのか、
その辺の心の機微はぼくにはよくはわからないのだけど、
その話題をたくさん話していたので、
多分、T氏にとっては重要な関心事だったのだと思う。

ぼくは受験産業に身を置いておきながら、
極端なまでに生徒の進路に興味がない。
勉強すれば受かるし、
勉強が足りなければ落ちるわけだけど、
別に受かった方がいいのか、
落ちた方がいいのかはぼくにはわからない。

進路が変われば出会う人も変わる。
環境も変わる。
世界に対する興味の持ち方も変わる。
すると、当然、結果として人生も変わる。

だから、進路の結果というのはそれぞれの人生に
大きな影響を与えるのだと思う。
その影響がいい方向への影響なのか、
悪い方向への影響なのかは、
実際のところはなかなか予想がつかない。

だから、あまり進路の結果に興味がないのだ。


T氏いわく、それは確かにそうなのだけど、
当人は合格したい、目指したいと思っていたわけだから、
その気持ちを考えると、
そこから立ち直れるだろうかと心配になる、とのこと。
そして、そこを心配してあげることで
今度、仮に彼に会う機会があったとしたら、
そのときの彼と自分との関係がよいものになるのだそうだ。

心の状態は言動に自然と表れるので、
これは確かにその通りなのだと思う。
でも、関係をよくとるために、
意図的にそのような心配する心の状態を作り出す、
という感覚ではないらしい。

これをT氏は「親心」と表現する。


確かにぼくにはこの「親心」メンタリティが激しく欠如している。

T氏とぼくの「親心」の有無について思いをめぐらしていて、
至った一つの結論。

やはりぼくは個人の意識とか感情とかいうものに、
あんまり重きをおいていないのだと思う。
個人の人間の意識だとか感情だとかを越えた
もっと大きな世界の流れや運命のようなものがあって、
人間はそれぞれそこに乗っかっている。
喜ぼうが、悲しもうが、まあ、とにかくにも、なるようになる。
そして、普通はそれがどのようになるかは予想できない。
激流をいかだで流されているのだけど、
先には大きな滝が待っているかもしれない。
でも、そんなこと考えていても役には立たないから、
とりあえず、目の前に迫ってくる岩をどうやって避けるか考えよう。
滝に落ちなくたって、岩に当たればいかだは壊れちゃうかもしれない。

「とにかく、やれることをやろう。
 やれることに全ての思考エネルギーも行動エネルギーも投下しよう。」

というのがどうもぼくの発想らしい。

「相手に対して役立つ働きかけとはどのようなものだろうか?」

ということは、多分、普通の人よりも
相当しつこく(笑)ずーっと考えていられるんだけど、

「ああ、試験に落ちてしまってかわいそうに…」

とかはなかなか考えていられないのはそのせいみたい。


それはきっと、

「役立つものは素晴らしい。役立つものは美しい。」

という極めてプラグマティックな世界観に美学を見出しているからで、
つまるところは好みの問題なのだろうなとおもう。

いつでも

「どうやったら、この状況をなるべくプラスに活かせるだろうか?」

という風に考える癖があるから、
生徒が試験に落ちたと聞いたら、その瞬間から、

「試験に落ちたという状況をどのように活かすと
 その子の今後の人生にプラスにつながるかな?」

って考え出してしまって、親心モードが発動する暇がないのではないか。
そんな風に考えた次第です。

世の中には親心モードを発動させられる人の方が多いだろうから、
ぼくは少数派として、
状況を利用する方法を考え、提案することに特化するのが、
世のため、人のためになる分業方法なのかもね。
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