教育業、先生業を長いことやっていると、
自然とそういう体質が自分に定着する。
昨日、あなみさんと彼が大学で持っている授業のクラスについて
話をしました。
昨年から、あなみさんは大学の講師として、
授業を持って生徒を教えています。
昨年一年で、あなみさんの授業は面白いと評判になったらしく、
今年は人気授業として定員一杯まで人が集まり、
成績順で足切りするとか。
ぼくは、その話を聞いて、
自分のことでもないのに大変うれしくなって、
あなみさんにその件について色々聞いたのだけど、
あなみさんからしてみると、
生徒が増えると諸雑務が増えてめんどうなんだ、と
結構、渋い顔をしていました。
ぼくだったら、人気授業になったら
手間が増えても、ついついうれしくなってがんばってしまうでしょう。
この辺が体質の違いなんだろうなあ。
先生的体質というのか?
そんな話題になったとき、あなみさんが面白いことを言ってました。
「あれよね。
君の方が、俺よりも先生、生徒の関係において東洋的だよね。
君は師から学ぶということを重視するけれども、
俺は考えてみるとあまり師に当たる人がいないかもしれん。」
確かにそうなんだよなあ。
以前、内田樹の「先生はえらい」という本について
確か日記を書いたのだけれども、
あそこで語られている師弟関係というのは
大変、東洋的な関係であって、
弟子は師から何をもらえるのかわからない。
それでも、弟子は師についていく。
その結果、弟子は師から色々といじめられて、
結果として、弟子は自分のそれまででは理解できない一段大きな枠組みを、
手に入れることができる。
アドラー心理学の野田さんなんかも、
師は弟子をいじめる義務があり、
弟子は師にいじめられる義務がある。
それが師弟関係だ、というような趣旨のことを
以前、ブログで書いていた気がしますが、
それも同じことを述べていると思う。
そして、この師弟関係の枠組みは非常に東洋的なんですね。
ぼくが、先生に対して抱いている敬意も
完全にこれと同じだと思います。
そのような師であるためには、
やはり師たるべきあり方や不断の努力というものが必要になり、
それが滲み出した結果、自然と弟子がつく。
あなみさんが大学で人気講師となったのは、
あなみさんがそういう種類の師となったことの一つの表れであり、
それがぼくにとっては大変うれしい。
ぼくは基本的にそういう種類の本物の「師」というものが大好きなので。
きっと、体が勝手に反応する。
そういうことなんじゃないかなあ、と思いました。
なんでこういう師弟関係を自分は好きなのだろうか?
そう考えてみると、ぼくは昔から先生というものに
目をかけてもらえることが多くて、
(逆ににらまれることも多かったが、そういうことはなぜか忘れるようにできている)
先生というものは、自分を育て、伸ばしてくれる存在だと
思っているからだと思います。
時々、妙にぼくを気に入ってくれて、
とても高く評価してくれる先生が出てくる。
やはり、そういう種類の期待には体が敏感に反応するもので、
そういう先生のことを大変好きになる。
この好きになるというのは不思議なもので、
はっきりと「好き」という意識がないこともある。
うるさいことばかり言うし、怖いし、目の前に出ると緊張するし、
できれば避けたいのだけど、
でも、この先生から逃げてはいけない、
そういう感覚が自分の中にあって、
なんだかんだその先生の言うことを文句をいいながらも聞いている自分がいる。
そして、時間が経って考え直してみると、
「ああ、自分はあの先生のことを好きだったのだな」
そういう風に気づくこともあります。
そもそも、完全に師弟関係にあるときには
好きとか嫌いとかそういう意識はないことのほうが多いかもしれません。
理屈を越えて、師は師なんだよな。
そういう種類の先生からは、
その先生が教えてくれる知識や技術だけではなくて、
その先生の立ち居振る舞い、物事に対する姿勢、世界の捉え方、考え方など、
その先生の生き様自体から影響を受けます。
ぼくは小学生・中学生・高校生・大学生・社会人になってから、
それぞれ、そういうような先生を持って生活してきました。
それを子どもの頃から繰り返しているので、
体の癖になっているんでしょうね。
逆に自分にとっての師がいない時期というのは、
なんだか、自分が傲慢な人間になっていくような気がして、
どうも落ち着かない。
今は目の前にはいないし、
実際に会ったこともないミルトン・エリクソンを
頭の中で一番の師とおいているのでしょう。
ぼくにとって本当にモノを学ぶというのは
知識をコレクションすることではなくて、
人間としてのあり方に影響を受けることだったりします。
だから、多分、普通の人が考えているよりも
ぐっと宗教的行為に近いものとして
「教える」という行為をみているし、
「師弟関係」というものを捉えています。
「親子関係」というのもそうとう宗教的行為ですね。
子どもは親のことを人生、最初の師として、
無条件に受け入れ、知らず知らずに真似をして育ちます。
ということは、あれかな。
人生最初の師である親が、いい師、いい先生として振舞える人だと
その子どもはその後の人生で、「師」に対する
無条件の信頼感のようなものを持てるようになる。
その結果、あなみさんのいう東洋的師弟関係を持ちやすくなる。
ちなみに、
スポーツ選手として大成するような人とかは
ほぼ、決まってみなさん東洋的師弟関係の弟子に入ることが上手な人らしい。
以前はスポーツ関連の実用書、今は女性向け自己啓発書の実用書の
編集をやっているぼくの知人がそう言っていました。
逆に自己啓発関連で会う著者達は、
謙虚な姿勢がなく、頭だけな感じの人も多くちょっとね……って感じらしい。
確かにスポーツっていうのははっきりと目の前に結果が出る世界だから、
謙虚にならざるを得ないのかもしれない。
で、結論。
だからぼくはあのヒップホップのMIWA先生を崇拝し、メロメロだということなのだな!
そして、シャラポワラブなのです!
自然とそういう体質が自分に定着する。
昨日、あなみさんと彼が大学で持っている授業のクラスについて
話をしました。
昨年から、あなみさんは大学の講師として、
授業を持って生徒を教えています。
昨年一年で、あなみさんの授業は面白いと評判になったらしく、
今年は人気授業として定員一杯まで人が集まり、
成績順で足切りするとか。
ぼくは、その話を聞いて、
自分のことでもないのに大変うれしくなって、
あなみさんにその件について色々聞いたのだけど、
あなみさんからしてみると、
生徒が増えると諸雑務が増えてめんどうなんだ、と
結構、渋い顔をしていました。
ぼくだったら、人気授業になったら
手間が増えても、ついついうれしくなってがんばってしまうでしょう。
この辺が体質の違いなんだろうなあ。
先生的体質というのか?
そんな話題になったとき、あなみさんが面白いことを言ってました。
「あれよね。
君の方が、俺よりも先生、生徒の関係において東洋的だよね。
君は師から学ぶということを重視するけれども、
俺は考えてみるとあまり師に当たる人がいないかもしれん。」
確かにそうなんだよなあ。
以前、内田樹の「先生はえらい」という本について
確か日記を書いたのだけれども、
あそこで語られている師弟関係というのは
大変、東洋的な関係であって、
弟子は師から何をもらえるのかわからない。
それでも、弟子は師についていく。
その結果、弟子は師から色々といじめられて、
結果として、弟子は自分のそれまででは理解できない一段大きな枠組みを、
手に入れることができる。
アドラー心理学の野田さんなんかも、
師は弟子をいじめる義務があり、
弟子は師にいじめられる義務がある。
それが師弟関係だ、というような趣旨のことを
以前、ブログで書いていた気がしますが、
それも同じことを述べていると思う。
そして、この師弟関係の枠組みは非常に東洋的なんですね。
ぼくが、先生に対して抱いている敬意も
完全にこれと同じだと思います。
そのような師であるためには、
やはり師たるべきあり方や不断の努力というものが必要になり、
それが滲み出した結果、自然と弟子がつく。
あなみさんが大学で人気講師となったのは、
あなみさんがそういう種類の師となったことの一つの表れであり、
それがぼくにとっては大変うれしい。
ぼくは基本的にそういう種類の本物の「師」というものが大好きなので。
きっと、体が勝手に反応する。
そういうことなんじゃないかなあ、と思いました。
なんでこういう師弟関係を自分は好きなのだろうか?
そう考えてみると、ぼくは昔から先生というものに
目をかけてもらえることが多くて、
(逆ににらまれることも多かったが、そういうことはなぜか忘れるようにできている)
先生というものは、自分を育て、伸ばしてくれる存在だと
思っているからだと思います。
時々、妙にぼくを気に入ってくれて、
とても高く評価してくれる先生が出てくる。
やはり、そういう種類の期待には体が敏感に反応するもので、
そういう先生のことを大変好きになる。
この好きになるというのは不思議なもので、
はっきりと「好き」という意識がないこともある。
うるさいことばかり言うし、怖いし、目の前に出ると緊張するし、
できれば避けたいのだけど、
でも、この先生から逃げてはいけない、
そういう感覚が自分の中にあって、
なんだかんだその先生の言うことを文句をいいながらも聞いている自分がいる。
そして、時間が経って考え直してみると、
「ああ、自分はあの先生のことを好きだったのだな」
そういう風に気づくこともあります。
そもそも、完全に師弟関係にあるときには
好きとか嫌いとかそういう意識はないことのほうが多いかもしれません。
理屈を越えて、師は師なんだよな。
そういう種類の先生からは、
その先生が教えてくれる知識や技術だけではなくて、
その先生の立ち居振る舞い、物事に対する姿勢、世界の捉え方、考え方など、
その先生の生き様自体から影響を受けます。
ぼくは小学生・中学生・高校生・大学生・社会人になってから、
それぞれ、そういうような先生を持って生活してきました。
それを子どもの頃から繰り返しているので、
体の癖になっているんでしょうね。
逆に自分にとっての師がいない時期というのは、
なんだか、自分が傲慢な人間になっていくような気がして、
どうも落ち着かない。
今は目の前にはいないし、
実際に会ったこともないミルトン・エリクソンを
頭の中で一番の師とおいているのでしょう。
ぼくにとって本当にモノを学ぶというのは
知識をコレクションすることではなくて、
人間としてのあり方に影響を受けることだったりします。
だから、多分、普通の人が考えているよりも
ぐっと宗教的行為に近いものとして
「教える」という行為をみているし、
「師弟関係」というものを捉えています。
「親子関係」というのもそうとう宗教的行為ですね。
子どもは親のことを人生、最初の師として、
無条件に受け入れ、知らず知らずに真似をして育ちます。
ということは、あれかな。
人生最初の師である親が、いい師、いい先生として振舞える人だと
その子どもはその後の人生で、「師」に対する
無条件の信頼感のようなものを持てるようになる。
その結果、あなみさんのいう東洋的師弟関係を持ちやすくなる。
ちなみに、
スポーツ選手として大成するような人とかは
ほぼ、決まってみなさん東洋的師弟関係の弟子に入ることが上手な人らしい。
以前はスポーツ関連の実用書、今は女性向け自己啓発書の実用書の
編集をやっているぼくの知人がそう言っていました。
逆に自己啓発関連で会う著者達は、
謙虚な姿勢がなく、頭だけな感じの人も多くちょっとね……って感じらしい。
確かにスポーツっていうのははっきりと目の前に結果が出る世界だから、
謙虚にならざるを得ないのかもしれない。
で、結論。
だからぼくはあのヒップホップのMIWA先生を崇拝し、メロメロだということなのだな!
そして、シャラポワラブなのです!
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茄子のほとんどは水分ですが、ビタミンB群やC、カルシウム、鉄、カリウム、食物繊維をバランスよく含んでいます http://tachograph.sabellsenterprises.com/
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